父、武井勝について

7月7日は七夕様。同時に私のとっては父の祥月命日でもあります。
そこで、ちょっと父の事でも書いてみようかと思います。感傷的ですみませんが。
父の人生は60年と半年と短いものでした。しかも、サラリーマンとしての人生はたったの33年。入社先もFACOM。子会社でした。そこから、あと半年生きていれば、富士通の社長になったはずというところ迄、実績を積んで来た。異例特例尽くしの会社人生だったのだと思います。
うちの家族…母と娘の2人組な訳ですが…は、本当に呑気だったので、サラリーマンになったらその会社の社長になるものなのだと思っていました。課長になっては残業代が無くなって給料が減ったと言われ、部長になっては肩書きが長くて分かりにくいと言われ、統括部長代理になっては「代理って何?」と言われ、取締役になっては「またヒラなのね〜♪」とさらりと言われ、大変だっただろうなぁ!
流石に父が専務になるかもしれない!という頃には、専務になれれば、次は社長候補になるkと、また、誰でも社長になるのでは無いこともわかっていましたので、実際に彼が専務になった時には、家族でとても喜んだ事を覚えています。
父に社長の内示があったのはもう父が病床についた後でした。でも、それがあったのは、本当によかった。会社は待っていてくれたけれど。残念だけど、闘病も半年だけだったから、結局なれなかったけれど。
22歳で入社していたのだったらあと5年あった筈でした。
父と家族の為にも、せめてあと5年、いや、私の頼れて、喧嘩し放題のアドバイザーとして、それに、口幅ったいけれど、日本の経済界の為に、あと20年、父に時間があったら、と思うことはよくあります。
同時に、父の死後の富士通や日本企業を見ると、一番良いところで亡くなったのかもしれないと思うこともあります。
親分肌で、剛腕。でも大胆にして繊細な人でしたから、社長になったら人の数倍のストレスを抱え込んだでしょう。
一つでの会社で出世することがミッションでもあり、愛する家族に「社長、社長、子会社なんて嫌よ♪」と無邪気に言われ続けたことで、社長がパッションにもなっていた父は、それを通じて、世界と日本の役に立とうとしていた。そのことを、私は知っています。
さて、武井家は「のほほん」家族。家ってものは、世代を経ればスタート地点が前に進むんだから、子供は親超えて当たり前、と気軽に思っておりまして。
私は父からは「涼子はサラリーマン二代目だからいいなぁ!パパよりずっと得してるぞ。」といつも言われていましたし、そんなもんだと信じているのですね。
もっとも私の生き方は、父とは全く異なりますので、私に出来て父には出来ないだろうこと、父には出来るけど私には出来ないなぁ!ということはたくさんありますが、、、それでも、常に、父はできなかったが、あれだけの構想をいつも持っていた父であったら、これをやりたかっただろう、と思うことは、想像できる範囲では全て遣り尽くし、さらに、自分なりの目標も少しクリアして行くようにと思っております。今も、少しずつそうしているつもりですが、もっと頑張りたいなぁ!
先ずは、私が60歳になった時に、私の代で少し進化したと確信出来るように。そして、両親がそうしてくれたように、私も私一代ではやりきれない、次の世代で加速するタネが蒔けているように。
何よりも、先ずは健康で長生き!時間があったら、やれる事が掛け算で増えて行くわけですもの!